事務局の鹿児島研修について
松田 康子 |
鹿児島は20数年前に全国女性集会が開催されたときに参加して2回目です。そのときは、集会だったので果歩島の県内を見学することができませんでした。今回の鹿児島研修の場所(1)知覧特攻平和会館知覧特攻平和会館を見学し、知覧は太平洋戦争の末期、薩摩の特攻基地のおかれた町です。この特攻平和会館は史実を後世に正しく伝え、世界の恒久平和を願い建立したそうです。 会館内には旧陸軍四式戦闘機「疾風」三式戦闘機「飛無」などが展示されていました。 戦闘機といっても、昔の飛行機の材料は鉄が少なく木で補う部分がたくさんあって、その実物を見ると本当にこの飛行機がどこまで飛べたのかということが先に思いました。 実際、飛んでも高く飛べずに途中で燃料が切れたりして墜落した飛行機が何機もあったことだと思います。 そして、その戦闘機には若い10代から20代前半の男の子が乗っていて、闘いに挑んで行ったと思います。 そして、その闘いに負けて死んでいく若者たちの遺書が全員飛び立つ前に家族に宛てて書いていました。 戦闘機に乗る若者にとっては、負けて戦闘機が落ちるということを考えず、日本のために、天皇ためにと記された言葉がたくさん文章に綴られていました。 本当に惨い戦争があったことが残念でなりません。 今も戦争はよその国で起こっていることはテレビで見ますが、何でこんなことがいつまでも続くのか、早く戦争のなくなることが私たちにとっては大きな願いです。 (2)特攻隊員を支えた富屋食堂ここは、特攻隊員が唯一ホッとする場所だったそうです。この富屋食堂の女将さんである鳥トメさんが特攻隊員が戦争に旅立つ前に一人ひとりお母さん代わりをして慰めてくれていたそうです。 (3)知覧の武家屋敷庭園佐多民子庭園を周り、庭の木が外から見えにくく、また入りにくいように設定されていて、庭園の手入れが大変なくらいきれいでした。(4)仙巌園いろんなところに武器や大砲が設置しているところがたくさん残っていました。この状況を見て、戦争のすさまじさがありありと残っていることがびっくりしました。私は、戦争経験がないから、この時代に生まれていたら今頃どうなっていたのかなということを考えると怖くなります。 最後に最後に、全国からきた若者が特攻隊の訓練を受け闘いへの準備をおこない、いざ戦争へとなった場合のために突撃前に家族にあてた手紙がぎっしりと資料館に並べてあました。その文章を読むと遺書とも言うべきものであったことです。 覚悟して戦闘機に乗り、日本が勝つという目的で戦いに行った若者たちの言葉が手紙に書かれ、読んでいるとその思いが伝わってきます。 本当に悲しいと思いました。 戦争は二度としない、させないを合言葉に運動をしていかないと思いました。 私たちにとって、戦争という言葉だけで本当の怖さは知りませんが、でも多くの人たちがいろんな形で犠牲になっている事実は残っています。これをひとりでも多くの人が、また若者がもっと命の重さをわかってほしいことです。 2008年事務局研修in鹿児島記事に戻る |