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「知覧特攻平和会館と特攻の母「鳥濱トメ」を学ぶ」

福島 隆志

知覧特攻平和公園に向かう

 知覧特攻平和会館は「知覧平和公園内」にあり、みやげ物店が立ち並び、今では「ある意味観光地」となっている。
みやげ物店を通り過ぎ特攻平和会館近くにさしかかると、雰囲気が一転する。
特攻隊を弔う多くの灯篭や石碑が立ち並び、その奥には「特攻平和観音堂」が建つ。
一礼し先に進むと,奇妙な建物が目の前に現れる。
「三角兵舎」と言い、敵機から見つからないようにと、壁はほとんどなく屋根が直接地面に置かれているような形である。
内部は、当時の様子がそのままに保存・展示がされており、当時の兵舎生活が垣間見れる。
三角兵舎を出るとすぐに「知覧特攻平和会館」につく。
中にはいると、まず目に飛び込んでくるのは「特攻隊員の写真」である。
どれも凛々しい顔立ちで移っており、どれを見ても青年である。
説明書きには、特攻隊のほとんどが10代から20代の青年と記されていた。
その下の展示ケースには、死を覚悟した特攻隊員が、家族や友人に宛てた「遺書や遺言」が展示されている。
その内容は、母親に宛てたもので「生み育ててくれた事の感謝と、特攻により死に急ぐ事の謝罪」であり「自分亡き後の家族の無事を祈る」と言うものが多く、特攻によって死を宣告された青年の「死ぬまで母の子」であり「戦争の道具でなく人間」であると言った思いが伝わってくる。
また、いかにも勇敢に「国(天皇)のために特攻す」と書かれた遺書もあり、当時の軍事教育の中での「洗脳」がいかに強かったのかが伺える。
また、勇敢であるかの様な振る舞いの中には、特攻によって自分自身が死んでいくと言う現実に対し、国のためという言葉によって自分自身や家族に対し、言い訳や慰めをしてたのではなかったのかとも思える。
こうした遺書や遺言が所狭しと並ぶ会館である。
他の観光客が大きな声で口々に話しながら、この会館に入場する。
しかし、この遺書や遺言を読んだ瞬間、まるで凍りついたようになる。
当たり前だ、人間が戦争というつまらないもののおかげで国に道具扱いされ、特攻隊員それぞれが「最後の人間の気持ち」を綴った遺書は笑いながら見れる代物ではない。
あまりにも展示しているものの重さを感じ、会館前で休憩をとる。


おばあさんたちの一言

 会館前で休んでいると、数人のおばあさんが出てきて「みんなかわいい子ばっかりやのになあ」とつぶやいた。
かわいい子とは、容姿が可愛いというのではなく「大切な子」と言う意味で使う。
このおばあさん達は「特攻で死んで逝った青年たちは、みんな大切な子ばっかりやのになあ」と言ったのです。
おばあさん達は口々にそう言って、手に持ったハンカチを強く握り締めて、小さな肩を落とし歩いていったのが印象的であった。


特攻の母 鳥濱トメ

 この知覧特攻隊の話しをするのに、忘れてはならない存在がある。
それは、知覧にある「富屋食堂」と経営者の「鳥濱トメ」さんである。
富屋食堂は軍の指定食堂となり、全国から死ぬ事を前提に集められた特攻隊の青年たちが出入りし、トメさんの事を母のように慕い、トメさんもわが子のように接してきました。
特攻の命により次々と出撃するわが子をトメさんは、滑走路の横で姿が見えなくなるまで見送り続けたそうです。
映画や本で紹介されている話しですが、ある夜、一人の特攻隊員が「自分は明日特攻し死んでしまうが、トメさんのところにホタルになって帰ってくるから少し戸を開けておいて」と言い、トメさんも「わかったよ帰っておいで」と言葉を返した。
次の日、その青年は特攻し返らぬ人となる。
その夜、トメさんの目の前に約束どおり「一匹のホタル」が帰ってきた。
という話しは、あまりにも有名である。
また、トメさんは「特攻隊員が不安にならないようにと」出撃前の特攻隊員には、ほとんど涙を見せず気丈に振舞ったそうです。
この気丈さは、トメさんの壮絶な一生にも見られる事となる。


鳥濱トメの壮絶な一生

 戦後トメさんは、特攻隊員を弔うために滑走路横に「棒杭」を立て、墓標として手をあわせ続けると同時に、特攻隊の話しをする事もタブーであった時代にもかかわらず、特攻隊員を奉る「特攻平和観音堂」の建設をするために、行政や関係者に粘り強く働きかけ、1955年の9月に思いが伝わり、建設することがかなった。
この時トメさんは「これで多くの人が特攻隊員に手をあわせてくれるようになった」と言い、自らが立てた「棒杭の墓標」をゆっくりと引き抜いたそうです。
晩年、病気を患いながらも特攻平和観音堂への参拝の日々が続き、1992年4月、トメさんは壮絶な一生を終えることとなる。


もう一匹のホタル

 トメさんの訃報は知覧の町を駆け巡り、その一方では、亡くなった病院からトメさんを乗せた車が、思い懐かしい「富屋食堂」に向かっていた。
途中で、平和観音堂に近づけるだけ近づき、家族がトメさんの顔を覆っている布をとると、病院では真上を向いていた顔が「特攻平和観音堂」の方を向いていたという。
その後、トメさんが無言の帰宅をし、部屋に寝かされると「顔はまっすぐ」上を向いていたそうです。
また、訃報を聞いた大勢の人が次々に訪れ、家族も対応に追われて「やっと一息」といった瞬間。
トメさんの柩がおかれている部屋を、まだ4月だというのに「一匹のホタル」が通りすぎていった。
家族は皆「あのホタルになって帰ってきた青年が迎えにきたのか」・「トメさんがホタルになって特攻平和観音堂に向かったのか」と思ったそうです。
特攻隊員の壮絶な死に様と鳥濱トメさんの壮絶な生き様は、時には「美談」として利用される。
しかし、まぎれもない事実は、その「死に様も生き様」も戦争によるもので、戦争という行為は「どの国・どんな理由」があったとしてもしてはならない。
戦争によって得られた事は「してはいけない」という事の教訓だけで、なくしたものは、あまりにも多すぎる。
ある人の言葉で「戦争を始めるのは人間であり、戦争をしないようにするのも人間である」という言葉がある。
私たちは、この言葉を重く受け止め、戦争は最大の人権侵害であり「人間を否定する行為」という事を確認しなくてはなりません。


最後に】

悔しくも、戦争を体験せざるをえなかった人達にお願いです。
忌まわしい数々の体験であり、思い出す事や話す事もしたくないと思いますが、その忌まわしい「生の話し」をできるだけ後世に語りつないで欲しいと思っています。
さらに、戦争に行った話しは記録として多く残ってはいますが、戦時中の厳しい生活実態や、村や家庭を守ってきた貴重な体験などを後世につなぎ、戦争をする事がいかに惨めな事なのかを伝えてください。
自分自身も、祖母から「戦争の時の話し」として、多くのことを聞いてきました。
こういった経験があったからこそ、戦争に対して素直に向き合えるのだと思います。
どうかよろしくお願いします。

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