また、米空軍が管理する嘉手納基地は嘉手納町、沖縄市、北谷町にまたがる約20平方キロメートル(東京ドームの約400倍)にも及ぶ広大な基地である。4000メートルの滑走路が2本もあり、成田空港よりも大きい我が国最大の空港であり、ベトナム戦争や湾岸戦争の出撃基地となったところである。
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読谷村
目的地の読谷村に入る。 目に飛び込んだ二つの大鳥居。ここはトリイ通信基地。
1945年4月1日、米軍上陸地点だ。
この施設は米軍戦略通信網の最重要施設で、かつての社会主義国の放送、通信、暗号等をすべて傍受し、処理、分析できたほどの機能を備えているという。
同施設内には統合分析センターがあり、海岸沿いには鉄塔型アンテナ、棒状型アンテナが林立し、エリート部隊といえる陸軍特殊部隊、グリーンベレーが配備されており、いかに米軍がこの施設を重要視しているかが伺える。
このトリイ通信基地には、キャンプ・ハンザと呼ばれるアンテナ施設、楚辺通信所、通称「象のオリ」が傍受した他国の航空機や船舶の軍事通信が地下ケーブルを通じて送られている。
海辺の平原のなかに突如現れる象のオリは異様な雰囲気を漂わせている。
すぐ横の道路を釣りざおを持った子ども達が海岸のほうへと自転車を走らせている。
特に注意をはらうこともなく景色の一部のように見ているのだろうか。
生まれたときから身近に基地があり、自分達の家や学校の近くに基地があることに疑問や怒りはないのだろうか。
あの少年達に尋ねてみたいと思った。
楚辺通信所の一部は使用期限が切れたが「米軍用地特措法の改正」によって再び強制使用されている。
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【チビチリガマ】
1945年3月23日、米艦載機は沖縄全域への大空襲を行った。
4月1日、米軍は読谷・北谷海岸に上陸を開始し、沖縄戦が始まった。
一進一退の攻防戦が展開され、日米双方に多大な犠牲者を出した。
5月下旬、軍は首里司令部を放棄し、本島南部の摩文仁に移したが、それ以後、戦闘員だけでなく一般住民の犠牲者が急激に拡大した。
「ガマ」とは洞窟、洞穴のことであり、沖縄にはこうした石灰岩の自然洞窟がある。
米軍上陸後の4月3日、ガマは戦車・武装兵に包囲され投降勧告が行われたが、住民141名はそれを拒否し、集団死をはかり、85名が亡くなった。
当時皇民化教育のもとでは、「相手は人間ではない、鬼畜米英だ」「捕虜になれば辱めを受け殺される」という考えが徹底されていた。
ガマに避難した人たちは、迫り来る米軍を前に、捕まったらどういうことをされるか分からない、それならいっそと死を選んだ。
武器などない中、毒薬を打って自殺を助け、母が娘の頚動脈を切り、カマで首を切ったり首を絞めたりという集団死が始まったそうだ。
60名近くは奇跡的に生き残ったが、やむを得ない状況とはいえ、今でいう自殺幇助、殺人幇助という苦しい思いを抱えていたため、戦後40年間全く知られないままだった。
1983年以後、児童文学者の下嶋哲朗氏の呼びかけで調査が行われ、ようやく何が起こったのか明らかになった。
ガマ入口には金城実氏(以下金城先生と呼ばせていただきます)による「平和の像」が建立されている。
この後訪れる金城先生の作品を初めて目にした。
力強さの中に悲しみが満ち溢れた作品だ。
後になって、金城先生からこの平和の像は再建されたものだという話を聞いた。
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