2日目 2003年8月5日 晴天 大久野島フィールドワーク
7時30分 ホテル出発 8時30分 平和資料館の下に集合
資料館前にて
バス4台に分乗し、高速道路へ。
車中では、学習ビデオをたくさん流してくれていたのに、不覚にも爆睡
気が付くと大久野島へわたる船着場へ到着していた。
(主催者の広島市のみなさま、ごめんなさい・・・)
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10時30分 大久野島へわたる巡航船、出発。
大久野島=頂上
(左がアキちゃん、右がカヨちゃん)
大久野島へわたる巡航船、出発。
船の上では、風がさわやかに流れていた。
幸せだった
このままどこかへいってしまいたい気分だった・・・
(しかし、まだこの時はこれから始まる恐怖を知る由もなかったのでした・・・)
大久野島に到着後、すぐに昼食をいただいた。
朝が早かったせいで、あまり食べなかったため、すでにペコペコ!
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11時30分 フィールドワークスタート
毒ガス資料館を皮切りに、米軍の空襲に備え非常通信をおこなったとされる「通信豪」、「慰霊碑」をまわり、島の頂上にある「南部砲台跡」へ。
ここからが恐怖のフィールドワークがはじまった。
気温30度以上の灼熱地獄のなか、道なき道をひたすら頂上へ。
「時間がないため近道をします」
という言葉が発せられた瞬間、獣道へむかって突進していく案内員さんの後を必死でついていった。
この時点で、あまりの暑さに私たちは会話を失ってしまっていました。
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そういえば、昼食後に「暑いので水分をたくさん補給してください」という毒ガス資料館の職員さんの言葉が今さらながらに理解できた。
ほんとに暑いってもんじゃない(>_<)・・・
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さて、暑かった話はこれまでにして、私たちがフィールドワークした「大久野島」は、戦時中周辺の住民が毒ガスの製造に従事していました。
しかし、彼らには「毒ガス製造」とは知らされず「農薬製造」と聞かされていたのです。
この島で製造されていた毒ガスは、イペリットガス、ルイサイトガス、クシャミガス、催涙ガスという猛毒で、現在でも汚染された土壌が発見されたりしています。
しかし、発見された場合、土壌を島の外に運び出し、毒消し処理をおこなって、再び島に返しているので、「決して危険な島」ではありません。
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ここで重要なことは、毒消しをしたからといって根本的に解決したわけではありません。
致死性の毒ガスは、国際法上使用禁止になっているため、当時の日本軍部は「証拠隠滅」をおこないました。
それは、進駐軍が来るまでに毒ガスを処理しようと、毒ガス容器や毒ガス製造設備が1メ−トル四方に切り刻ざみ、機帆船に積んで近くの海に大量に遺棄したのです。
現在、すぐに大きな問題が発生するわけではありあせんが、地震などにより、海底の地盤に亀裂が生じた場合、大量の毒ガスが海に流れ出る可能性があります。
このような危険性を多くの学者が日本政府に訴えていますが、国際法に触れた毒ガス製造をおこなっていたことを認めることになるということと、撤去作業に莫大な費用がかかるため、これらの事実を認めようとしません。
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3日目へつづく・・・
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