『日本人の歴史認識に問われるもの-沖縄戦教科書問題から』開催結果
「集団自決」軍命削除の教科書検定抗議 「日本人の歴史認識に問われるもの」沖縄のうねり -沖縄戦教科書問題から- | |||||||||||||||||||||||
2008年2月6日(水)和歌山市勤労者総合センターで上杉聰さんを迎え、講演会がひらかれました。 各地から80人あまりが参加し、教科書問題にかかわる政治的な動きについてお話いただきました。
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はじめに、藤原慎一郎(平和フォーラム)さんのあいさつに続いて、昨年おこなわれた「9・29県民大会」のLIVE映像(編集・30分)を見ました。 〜平和フォーラム編集の「9・29県民大会」LIVE映像より〜 ◆「9・29県民大会」LIVEより 【各団体のあいさつ】 諸見里 宏美(県PTA会長) 「死者の声が聞こえないのか!」 仲里 利信(県議会議長・実行委員長) 『8歳で戦争を体験し親兄弟をなくした。 あの忌まわしい体験を解くことはないと思っていたが、今回の教科書検定意見の結果が気持ちを揺るがした。 文科省のシナリオは自作自演だ!軍命によって殺し合いがあったことは隠しようのない事実。 真実を伝える事がわれわれの使命。 県民が一丸となって「軍隊による強制集団死の削除」に断固「ノー」と叫ぼう』 照屋 奈津美・津嘉山 拡大(こうだい)(読谷高校) 『おじい、おばあがウソをついていると言いたいのだろうか。思い違いと言いたいのか。 死者の山を越え、誰が敵か見方か分からない恐さ、肉親の死・悲しさ、極限に追い込まれた人間が「敵につかまれば男は戦車にひかれ、女は乱暴される」と聞いてどう感じるか? チビチリガマでは、毒の入った注射器を母が子に、5歳から高齢者までの80人が亡くなった。 戦後60年、記述内容をいまさらなぜ変更するのか? ガマの生存者の証言をいまさら否定するのか? ウソを真実といわないでください!教科書から軍の関与を消さないでください!』 吉川嘉勝(渡嘉敷島) 『渡嘉敷島北山(にしやま)の集団自決の生き残り。 海上挺身隊が特攻艇を配備し島に駐留した。 渡嘉敷・座間味島に日本兵がいなければ「集団自決」は決行されていない。 赤松元隊長の命令で北山に人が集められなければ一夜にして2百人の人が死んでない。 集団自決が日本軍の命令、誘導、強制、指示、宣撫、示唆などの関与がなければ惨劇は起らなかった』 〜多くの方がたがあいさつされました〜 仲井真 弘多(沖縄県知事) 中山 勲(沖縄県教育委員会) 翁長 雄志(沖縄県市長会会長) 玉寄 哲永(沖縄県子ども会育成連絡協議会会長) 照屋 仁士(沖縄県青年団協議会会長) 小渡 ハル子(沖縄県婦人連合会会長) 主催者発表で11万6000人もの人が宜野湾海浜公園に結集しました。 県民集会には、子どもから腰の曲がったおじい・おばあまでもが「教科書検定」に抗議するために集まったのです。(10人に1人の割合) 「日本軍」が関与した「あの惨劇」を忘れさせないために、将来へ史実を正しく伝えるために11万6000人が結集し、検定意見撤回を訴えました。 「集団自決」の日本軍関与を削除させるということは、今でも軍事教育が続いているということです! 結果的に教科書出版社の「訂正申請」で決着をつけた政府ですが、みんなが「怒っている」のは文科省主導で動いたこれらの事実を出版社からの「訂正申請」という形で責任転嫁させたことではないでしょうか。 | |||||||||||||||||||||||
〜上杉聰さんの講演より〜
◆教科書から削除されようとした「集団自決」とは何か? 「集団自決」 4人に1人が亡くなった沖縄戦は、日本国内で最大の地上戦が繰り広げられました。 なぜ「集団自決」が起きたのか。 日本軍と住民が混在した戦場で、日本軍は軍人がとるべき行動を住民にも強制し、さらに「軍官民 共生共死」方針を取り入れたのです。 ○日本軍が軍人に説いた行動とは・・・ 「生きて捕囚の辱めを受けず」 「野蛮な鬼畜米英につかまれば女は強姦され、男は戦車でひき殺される」 ⇒ 捕虜になる前に「自決」することを繰り返し指導 ○「軍官民 共生共死」とは・・・ 「軍が全滅するときには、住民も一緒に死ぬ」ことを強要 ⇒ 軍は住民に手榴弾を配り「一発は敵に、もう一発で自決」することを強要 米軍に命じられて投降を呼びかけた住民を「スパイ視」して虐殺 これらの背景には、天皇のために死んで皇国を守る「殉国思想」が日本軍に徹底されていた反面、住民には国家意識が希薄で「殉国思想」が徹底されていないことから、日本軍は機密保持のために「集団自決」を強要し、「投降」する住民を「スパイ視」したのです。 | |||||||||||||||||||||||
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これらの事実に加え、多くの証言者が当時を振り返り後世に伝えようとしています。 手榴弾の破片が手の甲に残ったまま今を生き、当時の悲惨な「集団自決」を語りつぐおばあがいます。 それでも、沖縄に基地をおき、駐留米兵による犯罪におびえながら生活している沖縄の存在に、私たちは向き合わなければなりません。 「沖縄に観光にきた人が、少しずつ基地を持ち帰ってくれたら平和な沖縄になる」と語ったおじいの言葉の意味を、もう一度自身の問題として向き合って考えてみませんか? |