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【4】ダリット津波被災地(カナル村/ポンディシェリー)
この村は海と湿地にかこまれたところにあった。 ここも津波の後政府もNGOからの支援もなくSRED(ファティマ)からの支援で何とか生き延びてきた。 近くにNGOが支援のために建てた住宅があるが、自分達ダリットは除され、漁民(他カースト)が占拠しているとの事でした。
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【5】漁民の村津波被災地(メルクッパン村/ポンディシェリー)
ここは漁民(他カースト)の村です。 世界的に有名なNGO団体が建てたデイケアーセンターもあった。 漁船もたくさんあった。 でも津波以降海の地形が変わって魚がとれないので、男性たちは海にでなくなった。 男が働かないから女性が働かなくてはならない。 そのためにミシンなどの機材がほしいと女性の自立を訴えていた。 ダリットの村とは、ちょっと違う感じを受けた。
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【6】SRED(農村教育開発協会)(アラコナム村/カンチープラム)
SRED(農村教育開発協会)とは、搾取されている人たちの運動を展開するために設立された。 ダリットがおおくを占めているが、ダリットだけに限定したものではなく、ダリット、先住民族、その他の貧しい人たちを集めて、自分たちの権利が侵害されていないかを考えるために1979年に設立されました主な活動内容は、ダリットの活動が一番多くを占めているが、ダリット、子ども、レンガ職人、マサマ解放運動、農村労働者の運動、土地を持っていない人たちの運動、セックスワーカーの運動、女性問題です。 今回ここでは、マサマ解放運動と、セックスワーカーの活動報告。 そしてダリットの子どもたちとの交流。
ダリット子どもデイケアーセンターへの訪問などをしました。
マサマ解放運動とは、貧しい家庭の中で生まれてきた少女が重い病気にかかった時に、その村の中にある『マサマ』と言う神に預けられる。 病気が治った後、その少女はマサマとなるのです。
ダリットの中にはさらに細かいカーストがあり、その中にはマサマと呼ばれる慣習を行っているカーストがあります。 この慣習はタミルナドゥなどの南インドの各地に広がっており、宗教的あるいは文化的なものとして人々の間で定着しています。
彼らはマサマと呼ばれる神 を崇拝していてマサマには病気を治す力があると信じられています。 それゆえ女の子が病気になったときには、その子どもをマサマの神様に預けるのです。 しかし、マサマの実態はダリット女性の尊厳剥奪に他なりません。 それは、寺に預けられた女の子は年頃になると神様と結婚するのです。 結婚の儀式のとき結婚の証としてポットゥというメダルをつけられ、寺に属する公共の財産となり、一生マサマとして生きていかなくてはいけないのです。
マサマになった女の子は、祭りがあると、いつでも、どこでも大衆の前で踊る事を強いられます。 きわめてエロチックなダンスをする踊り子として引っ張りだされるのです。 踊りを踊ってる間はあらゆる年齢層の男性がその踊りを見に来て、その中には踊ってる女の子に近づきサリーやブラウス、体のあらゆるところに触ったりもします。 嫌でも、拒否することはできないし、踊りをやめることもできないのです。 普段は触ることはもちろん、見ることも近づくこともしない不可触民(アンタッチャブル)と言われているのに、そのときは近づき触り続ける!この慣習をやめようと運動が高まってきている。
マサマである本人からの経験や生い立ちを聞くことが出来た。 その中でマサマ制度の不当性を強く訴えるマサマ本人や、女性活動家が多くこれからのマサマ解放運動への姿勢が力強く感じられた。 『マサマとして見下されていたが、今は運動家として多くの人たちと出会い、前で話しをし尊敬される事をうれしく思っている』と、話してくれた。
セックスワーカーからの、話しも聞くことが出来た。 性産業に携わっている人たちです。
この人たちははじめから性産業に携わりたいとおもっていたのではなく、夫がいなくなって生計が立てられなくなってしまったり何かしら理由があるひとたちです
『夫がいなくなり、途方に暮れているところをいい家事労働があるとブローカーに騙されてティルタニ(性産業をする所)にきた。 』『再婚したが、夫の暴力に遭い家を出て、この仕事に就かざるを得なかった。 』等々。
セックスワーカーであることによって、家が借りれなかったり、ばかにされて公共の水が飲めないこともある。 売春が警察に見つかると、ドラックや人身売買と同じように罰せられるのに、買ったほうは何の罪にも問われないのです。 当の警察は、買うどころか正当な理由なく投獄をほのめかして彼女らを脅し、レイプし賃金を奪う。 とても考えられない話しだ。 今、セックスワーカーの人たちは、社会の中では許されないことばかりのことに声をあげて訴えている。 この運動は、警察の暴力から守るためにできたプロジェクトです。
おかしい事は、おかしいと、言葉でいえるようになった。 いまでは、警察が脅かしに来たらSREDのカードを見せ、「私はSREDの活動家をしているメンバーだ。 と言うと警察は去っていきます。 」と誇らしげに話してくれた。 “マサマやセックスワーカーの解放なくして真の女性の解放はありえない”とファティマさんは言う
この後SREDに集まってくる子どもたちと交流した。 ここに集まってくる子どもたちは学校に行けない子や、両親が働きに行っているところの子また学校に行く前に寄っていく子と、いろいろ事情を抱えている。 すいこまれそうな目の子どもたちばっかりで、はじめ恥かしそうにしていましたが一緒に折り紙で鶴を折ったり飛行機を折ったりしているうちに、すっかり打ち解けてにぎやかになった。
やかましなって、スタッフが「静かに!」といってもあまり静かにならないのにファティマさんが同じことを言うと一言でシーンとなった。 とくに大きい声でもないし怒鳴って言ってるのでもないのに。 ファティマさんの偉大さに今回も感銘しました。
そして子どもデイケアーセンターに案内してもらった。
そこは、大阪同企連が05年にIMDR-JCを通じて支援をしたダリット子どもデイケアーセンターでした。 ちょうどその日が開所式で、代表の同企連の理事長がテープカットを行いました。 そのあと現地の人々や子供たちが中に入って私たちに歓迎のダンスや寸劇などでおもてなしをしてくれた。
いろんな事情で学校に行けない子どもは、まだまだたくさんいるその子どもたちにとってこのセンターはおおきな力となるとファティマさんは私たちに話してくれた 。
以上で、中身の濃い4日間のスタディーツアーの報告は終わりです。 私は今回も多くの人たちに会い津波の被災地を見、話を聞いてダリットに対する差別のきびしさに再度おどろきました。 ダリットの村には聞くところによると政府からの支援は来ていないと言う。 それは現状を見ると一目瞭然です。
04年12月の津波からもう2年半が経とうとしているのにまったくと言っていいほど復興されていないのです。 もともと貧しい家に住んでいたダリットの人たちは、それ以上にひどくなった家で現在生活している。 ファティマさんはそれぞ れの村を食料や、衣類の支援をしたりダリットが立ち上がらなくてはいけないと自立することを訴えて回っている。 わたしは前回もそうでしたが今回もまた力をもらって帰ってきました。
ファティマさんのインドにおけるすべての不条理に立ち向かう姿勢、穏やかな話し方の中ににあふれるパワーや、そのファティマさんの話を瞬きひとつせずに聞き入り信頼を寄せているSREDのスタッフのたくましさにいっぱいパワーをもらってきました。
そんな私なのですが、私たちが出きることは何なのかと考えた時、食料や衣類、お金などの支援には限度があります。
できるならば会って肩を叩き合い頑張ろうねと声を掛け合う事なのではないかと、痛切に感じたツアーでした。
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